頑張って生きていく。

自由に羽ばたいて生きて行くことを決めた、人のブログ。

面接。

僕は、面接で正直になんでも話してしまう癖があるので、事前にこれは曖昧にすべきところだったり、聞かれない限り言わない方がいいと決めないと言ってしまう。

 

そう、馬鹿正直というもので、自分のことを垂れ流しにするタイプなのだ。

人の話はなかなか聞けないタイプでもあると少し自覚してる。

 

ああ、もう少し聞き上手になれば、コミュニケーション力も付くんだろうなと思うけれど、気づいたときにはぺらぺら言いたいことをしゃべっている。

確かに一方的に喋る必要がある仕事もあるけれど、そうでない場ではただのうざい人。そんなところをまずは気をつけられる人になりたいと思う。

 

面接では、自分をどう良く見せるか。ひとつも実力がないのに、あるように言うのはだめだけれど、印象よくする程度ならいいのではと思う。

 

人と話すと熱が入るときが多い。そこも、ぺらぺらしゃべり出してしまうスイッチだ。そのスイッチを押されたとしても、冷静に求められている量の情報で説明できればいいと思う。

完璧主義すぎるか。こんなに気にしてばっかりだから、今精神的に病んで休職なんてしてしまうのか。

人間が、考えすぎるというのは病気なのだろうか。否、考えすぎないのも病気なのだろう。否、どっちも個性と言ってしまえばそれまでだ。

社会に適応するということは、自分が飛び込んだ世界の文化に適応。対応することなのだと自分は思う。それが上手く出来る人が適用力か。ということは、考えすぎる考えすぎないの前に、その状況にあって、考える、考えないを使い分けることができるようになれば、問題ないのだろうと考える。

そうだよな。。。

 

俺に足りないのは、考えないようにすることでもなく、ストレス解消法を考えるのではなく、ストレスを受けないようにその現状に適応する。対応する能力が必要なんだ。その能力が獲得できれば、どんな環境に行ってもその文化に馴染み生きて行くことができるんだと思う。

でも、どんな社会にも適応できる人間は素晴らしいのか?

否、その社会にとっては素晴らしいのかもしれないが、生物としては全ての人間が適応するようになっていては、文化がやっぱり成長していかないと考える。普通といわれるその世界に適応してる人からは絶対に出てこないアイデアを生み出せるのは適応出来てない人であったりするものだ。

 

何が悪い、何が良い。たしかに、その社会、環境によっては絶対的にある。

だが、めんどくさがり、動きたくない、こんなことが何か価値をもつものを生み出す可能性があるんだ。

自分はこう考える。

 

確かに現在、上手く生きて行けない人間がいる。上手く行けている人間がいる。だがどちらも、生物としては将来の優秀な子孫を残すための優秀な存在だということだ。

 

俺の脳みそはこう考えたいって言ってるのかもしれないな。

弱い立場の人達の目線にたってしまうから。